Share

第54話 祈りを返す鐘

last update publish date: 2026-11-01 15:19:33

第54話 祈りを返す鐘

歪んだ月冠がルシアンの頭上へ降り始めた瞬間、祭壇を囲む神官たちが一斉に祈りの言葉を唱えた。

それは神へ捧げる祈りというより、何度も同じ文句を繰り返すことで、別の考えを押し流そうとする命令に近かった。銀鏡でつながれた王都各地の礼拝所からも声が重なり、老若男女の区別を失った巨大な響きとなって祭儀場を揺らす。

「我らは月冠を戴く王を認めます。我らは月の聖女との婚姻を認めます。我らの願いを王へ預け、王の願いを我らの願いとして受け入れます」

月冠とルシアンの間に、黒い糸が次々と結ばれていく。

ルシアンは両足を踏ん張り、胸元を押さえながら耐えていた。王冠そのものへ手を伸ばせば、印に命じられて自ら戴冠を受け入れた形にされると分かっているのだろう。指先を強く握り込み、爪が掌へ食い込んでも、頭上を見ようとはしなかった。

「ルシアン殿下、下を向かないでください」

エララが声をかけると、彼は苦しげに顔を上げた。

「君は僕に、あれをよく見ろと言うのか」

「

Continue to read this book for free
Scan code to download App
Locked Chapter

Latest chapter

  • 運命の王太子に捨てられたので、呪われた竜皇の花嫁になります ~死に戻り聖女は偽りの番を拒み、世界最強の夫に溺愛される~   第54話 祈りを返す鐘

    第54話 祈りを返す鐘歪んだ月冠がルシアンの頭上へ降り始めた瞬間、祭壇を囲む神官たちが一斉に祈りの言葉を唱えた。それは神へ捧げる祈りというより、何度も同じ文句を繰り返すことで、別の考えを押し流そうとする命令に近かった。銀鏡でつながれた王都各地の礼拝所からも声が重なり、老若男女の区別を失った巨大な響きとなって祭儀場を揺らす。「我らは月冠を戴く王を認めます。我らは月の聖女との婚姻を認めます。我らの願いを王へ預け、王の願いを我らの願いとして受け入れます」月冠とルシアンの間に、黒い糸が次々と結ばれていく。ルシアンは両足を踏ん張り、胸元を押さえながら耐えていた。王冠そのものへ手を伸ばせば、印に命じられて自ら戴冠を受け入れた形にされると分かっているのだろう。指先を強く握り込み、爪が掌へ食い込んでも、頭上を見ようとはしなかった。「ルシアン殿下、下を向かないでください」エララが声をかけると、彼は苦しげに顔を上げた。「君は僕に、あれをよく見ろと言うのか」「目を背ければ、大司教は『受け入れる覚悟ができた』と解釈します。睨みつけてでも構いません。あなたが何を拒んでいるのか、ご自分の目で確かめてください」「相変わらず、優しいのか厳しいのか分からないことを言う」「以前の私なら、代わりに拒んであげようとしたでしょう。でも今は、それをしてはいけないと分かっています」ルシアンは乾いた笑いを漏らし、それでも顔を上げた。降りてくる月冠を正面から見据えた途端、胸の印が黒く輝き、膝がわずかに折れる。その身体を支えようと護衛隊長が踏み出したが、ルシアンは片手を上げて止めた。「まだ立てる。僕が助けを求めるまでは、手を出さないでくれ。何もかも一人で背負うつもりはないが、立つことまで誰かに任せたくはない」護衛隊長は不安を残したまま足を止めた。命令だから従ったのではない。ルシアンがようやく自分の望みを口にしたから、その選択を尊重したのだ。アウレリウスは二人のやり取りを眺め、慈悲深い笑みを崩さなかった。「言葉で抗う姿は美しいものです。ですが、個

  • 運命の王太子に捨てられたので、呪われた竜皇の花嫁になります ~死に戻り聖女は偽りの番を拒み、世界最強の夫に溺愛される~   第53話 偽りの戴冠式が始まる

    第53話 偽りの戴冠式が始まる神殿へ続く扉を抜けた途端、回廊の造りが変わった。荒く削られた石壁は白い月石の化粧板に覆われ、床には銀糸を思わせる細い溝が幾何学模様を描いている。かつて王族が月神の前で戴冠の誓いを立てた場所なのだろうが、今はその荘厳さが、逃げ道のない檻のように感じられた。銀色の溝には黒い光が流れていた。王都中から集められた祈りが床下を巡り、祭壇へ注ぎ込んでいる。次の鐘が鳴れば、この流れは一気に強まり、祈りという名を借りた服従が婚姻の証人にされる。ルシアンは胸元を押さえながら先頭を走っていた。手首に巻かれた黒い炎は、青白く変わっては戻ることを繰り返している。そのたびに足取りが乱れるものの、彼は止まらなかった。「この先に小礼拝堂がある。そこを抜ければ、祭壇の北側へ出られる。戴冠式で王族が入場するときに使う道だ」息を切らしながら説明する声に、エステルが眉をひそめた。「あなた、胸が痛むなら正直に言いなさい。祭壇へ着いた瞬間に倒れられたら、運ぶ手間が増えるのよ」「心配ではなく、手間の話なのか」「心配している相手に『無理をしないでください』と優しく頼めば、素直に聞く人だと思う?」「少なくとも、君に優しく頼まれるよりは、大司教に命令されるほうが現実味があるな」「口が回るなら、まだ倒れないわね」エステルはそう判断すると、走りながら薬鞄から小さな包みを取り出し、ルシアンへ投げた。中には苦みの強い乾燥薬草が入っているらしく、受け取った彼が匂いを嗅いだ途端、露骨に顔をしかめる。「噛んで。心臓の薬ではないけれど、呼吸は少し楽になるわ。ただし、さっきの鎮静薬がまだ残っているから、追加で勝手な薬を飲んだら殴るわよ」「君は医者なのか、脅迫者なのか、どちらなんだ」「命を粗末にする患者に対しては、両方よ」不満そうにしながらも、ルシアンは薬草を口へ入れた。あまりの苦さに目元を歪めたが、吐き出すことはなかった。そのやり取りを聞いていた護衛隊長が、わずかに口元を緩めた直後、前方へ拳を上げた。全員が足を止める。曲がり角の向こうから、鎧の触

  • 運命の王太子に捨てられたので、呪われた竜皇の花嫁になります ~死に戻り聖女は偽りの番を拒み、世界最強の夫に溺愛される~   第52話 私を捨てろという王妃の命令

    第52話 私を捨てろという王妃の命令古い月の神殿へ続く地下回廊は、人ひとりが両腕を広げれば壁に指先が触れそうなほど狭く、長いあいだ閉ざされていたはずなのに、奥から流れてくる空気には澱んだ匂いがなかった。冷たい石と消えかけた香油、それに、どこかで焚かれている香の甘ったるい匂いが混じっている。儀式はすでに始まっている。その事実は、低く連なる祈りの声よりも、エララの目に映る無数の黒い糸によって、いっそう明確に示されていた。糸は壁の亀裂や床石の隙間を這い、王都の方角から神殿の奥へ集まっていた。まだ誰かを完全に縛ってはいないが、触れた者の不安や服従心を少しずつ吸い上げ、祭壇へ運んでいる。人の祈りを川にたとえるなら、これは川ではない。細い管を一人ひとりの胸に差し込み、気づかれないように血を抜いているようなものだった。エララは足を止めず、胸元から折り畳んだ手紙を取り出した。王妃セラフィナが西塔の隠し書庫に残していた最後の手紙である。急いで書いたらしく、文字の一部は乱れていたが、筆圧だけは最後まで弱まっていなかった。先頭を歩いていたルシアンが、背後で紙の擦れる音を聞き取ったのだろう。肩越しに振り返り、苛立ちを隠しきれない声で言った。「今、読む必要があるのか。母上は祭壇にいる。大司教は僕たちが回廊へ入ったことに気づくかもしれない。手紙に何が書かれていようと、急ぐべきだ」「だからこそ、今読むのです。王妃様が何を望んだかだけではなく、何を恐れていたのかを知らないまま走れば、私たちは同じ失敗を繰り返します」「母上の恐れなら分かっている。証拠が失われることだ。自分の命より王家の罪が暴かれることを選んだ。いかにも母上らしい、立派で、冷静で、腹が立つほど正しい判断だ」言葉が進むほど、ルシアンの歩幅は速くなった。怒りに任せているようでいて、右手は胸元の上着を固くつかんでいる。そこには、アウレリウスに刻まれた偽りの忠誠の印がある。今の彼が急ぐのは母を救いたいからだけではない。立ち止まれば、印の奥から呼びかけてくる声を聞いてしまうからだ。ケイルが無言でルシアンの前へ腕を出し、その歩みを遮った。「急ぐことと、何も考えずに進むことは別だ。貴様

  • 運命の王太子に捨てられたので、呪われた竜皇の花嫁になります ~死に戻り聖女は偽りの番を拒み、世界最強の夫に溺愛される~   第51話 王太子の身体を借りた大司教

    第51話 王太子の身体を借りた大司教月時計とルシアンを結ぶ糸へ入った亀裂は、すでに塞がり始めていた。黒い光が傷口を縫い合わせるように蠢き、彼の首筋から胸元へ広がった刻印を、再び一つの形へ戻そうとしている。ルシアンは荒い呼吸を繰り返しながら、その変化を自分の手で確かめた。「長くは持たない。次にアウレリウスへ身体を奪われたら、私をここへ残して先へ行け」「あなたがいなければ、古い月神殿への道が分からないのでしょう?」エララが問い返すと、ルシアンは苦しげに顔を歪めた。「道順なら説明できる。王宮地下の旧水路を南へ進み、三つ目の分岐を東へ曲がる。その先に、王家の紋章が刻まれた扉がある」「その扉を開ける方法は?」「王家の血と、古い合言葉が必要だ。私か母がいなければ開かない」「それでは、置いていけないわ」「私を連れていけば、アウレリウスへ居場所を知らせながら進むことになる。先ほどのように、私の身体で君を襲うかもしれない。道具として利用されるくらいなら、ここで――」「死ぬほうがよいとは言わせない」エララは、ルシアンが続ける前に遮った。「あなたが死ねば、刻印を通じて何が起きるか分からない。溜め込まれた誓いが次の器へ流れる可能性もあるし、王家の血が儀式へ必要なら、あなたの死そのものを利用されるかもしれないでしょう。自分を殺せば解決するという考えは、作戦ではなく逃げ道よ」厳しすぎる言葉だと分かっていた。けれど、いま優しい言い方を選べば、ルシアンは自分の死をエララへの償いに変えようとする。ルシアンは反論せず、床へ落ちていた自分の外套を拾った。手が震えているため、留め具をうまく扱えない。それでも誰かに助けを求めず、何度も指を動かしていた。「逃げているのだろうな」ようやく留め具を嵌めたあと、彼は呟いた。「私は、自分がしたことへ向き合うより、最後に一度だけ正しいことをして死んだほうが楽だと思っている。英雄のように死ねば、被害者の顔を見なくても済むから」「そこまで分かっているなら、生きてください

  • 運命の王太子に捨てられたので、呪われた竜皇の花嫁になります ~死に戻り聖女は偽りの番を拒み、世界最強の夫に溺愛される~   第50話 王妃が残した最後の命令

    第50話 王妃が残した最後の命令階段の上から近づいてくる足音は、迷いなく王妃の部屋へ入った。扉が開く音に続き、複数の男が室内を調べ始める。寝台を動かし、机の引き出しを乱暴に開け、鉄格子へ何かを打ちつける音まで聞こえた。封印を破った者がいたと気づいているのか、それとも定時の捜索なのかは分からない。月時計の真下にある小部屋では、誰も声を発しなかった。ケイルが階段の入り口へ立ち、黒炎をまとわせた手を壁へ当てている。追っ手が隠し扉を開ければ、音を立てる前に制圧するつもりなのだろう。護衛隊長とディオンは左右へ分かれ、エステルは研究資料を入れた鞄を胸へ抱えていた。エララは王妃の箱を持ったまま、机の下に現れた階段へ目を向けた。下から空気が流れてくるため、行き止まりではない。逃げ道として使える可能性はあるものの、どこへ続いているかも分からず、術式や罠が仕掛けられていない保証もなかった。上階で、兵士の一人が声を上げた。「窓の鉄格子に異常はありません。王妃が逃亡した形跡もないかと」「では、なぜ水差しが空なのだ。今夜の食事は、まだ運ばれていないはずだろう」答えた男の声に、ディオンが反応した。「西塔警備の副官です」彼は口元へ手を当て、ほとんど息だけで囁いた。「アウレリウス直属の男で、王宮守備隊の命令を聞きません。見つかれば、話し合いにはならないでしょう」エララは箱の蓋に置かれた王妃の手紙を折り畳み、外套の内側へしまった。「下へ行きましょう。ここで戦えば、月時計に異常が伝わるわ」「先は俺が確認する」ケイルは階段の入り口へ移り、指先に小さな炎を灯した。エララが糸の有無を確かめたあと、護衛隊長、エララ、エステル、マリエ、ディオンの順で続く。最後のディオンが壁の内側にあった取っ手を引くと、机の下の床板が音もなく閉じた。ほぼ同時に、上の小部屋へ通じる隠し扉が開かれる。足音が入ってきたものの、追っ手は床下の階段まで見つけられなかったらしく、声は次第に遠ざかっていった。階段は十数段で終わった。その先

  • 運命の王太子に捨てられたので、呪われた竜皇の花嫁になります ~死に戻り聖女は偽りの番を拒み、世界最強の夫に溺愛される~   第49話 西塔の月時計

    第49話 西塔の月時計王都の城壁が見えたとき、エララが最初に覚えたのは、懐かしさではなく息苦しさだった。灰白色の城壁も、その向こうへ突き出した大聖堂の尖塔も、記憶の中とほとんど変わっていない。街道沿いの葡萄畑には収穫を終えた蔓が整然と並び、風が吹くたび、枯れかけた葉が乾いた音を立てている。王都で暮らしていた頃、エララはこの景色を見るたび、帰ってきたのだと思っていた。今では、胸の奥に浮かんだ言葉を、そのまま信じることができない。帰る場所は、王都ではない。皇城で待つルーマと、旅を終えたあとにケイルと築く場所だ。そう分かっていても、身体は過去を覚えていた。遠くに王宮の屋根が見えただけで、指先が冷たくなり、喉の奥には一度目の人生で吸い込んだ煙の苦みがよみがえる。あのときの炎は、すでに存在しない未来の出来事だ。それでもエララの中では、今も燃え続けていた。馬車の隣を進んでいたケイルが速度を落とした。窓越しに顔を覗き込み、体調を確かめるようにエララを見ている。「止める?」エララが先に尋ねると、ケイルは首を横へ振った。「止めたいなら止める。俺が決めることではない」「怖いから戻りたいと言ったら?」「理由を聞く。それでも戻ると決めたなら、共に戻る。王都へ入り直す方法は、あとからいくらでも考えられる」以前なら、ここまで来て引き返すという選択肢を口にすることさえ許されないと思っただろう。だが今は、戻る道があるからこそ、進むことを自分で選べる。エララは胸元の竜鱗へ触れた。赤い糸に通された鱗は、今日も身体の熱を静かに保っている。「進みましょう。怖いけれど、戻りたいわけではないの」「ならば進む」ケイルは余計な励ましをせず、馬の速度を戻した。一行が王都へ入るまでには、予想以上の時間がかかった。国境で正式な外交使節として身分と目的を告げた時点で、竜皇国からの来訪は早馬によって王宮へ知らされていた。それでも城門では、招待状の有無、護衛の人数、馬車に積まれた荷の内容まで、三度にわたって確認された。表

More Chapters
Explore and read good novels for free
Free access to a vast number of good novels on GoodNovel app. Download the books you like and read anywhere & anytime.
Read books for free on the app
SCAN CODE TO READ ON APP
DMCA.com Protection Status